602年に本多善光卿(ほんだよしみつきょう)が難波の堀から一光三尊の御本尊様をお迎えしたのが元善光寺の起元で、642年にその御本尊様は現在の長野市へ遷座されました。元善光寺の「元」は本元という意味で、古来長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣りになると言い伝えられています。

長野県飯田市にある元善光寺です。推古天皇10年(602年)に信州・麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光卿(ほんだよしみつきょう)が難波の堀から一光三尊の御本尊様をお迎えしたのが元善光寺の起元です。

皇極天皇元年(642年)にその御本尊様は現在の長野市へ遷座され、できたお寺が善光卿の名をとって「善光寺」と名付けられました。それから飯田の方の当山は勅命によって、木彫りで同じ御尊像が残され「元善光寺」と呼ばれるようになりました。元善光寺の「元」は本元という意味で、古来長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣りと言い伝えられています。

平成27年(2015年)の御開帳のときに建てられた回向柱(えこうばしら)です。数え年で七年に一度行われる御開帳に、阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸にかわり、白い善の綱として本堂前の回向柱に結ばれます。回向柱とは、卒塔婆の一種で、御開帳期間中に本堂前に立てられる高さ約10mの柱です。前立本尊の御手と「善の綱」によって結ばれるため、前立本尊に触るのと同じ御利益あるといわれます。

本堂手前の植え込みに芭蕉の句碑があります。「う羅やまし浮世の北の山櫻」と書かれていますが、これは元禄5年(1692年)1月16日、金沢の卯辰山に隠棲していた門人の、句空に求められて詠み送ったものとされる句です。芭蕉の句碑の隣には、江戸時代後期の地元飯田の俳人、桜井蕉雨(1775~1829年)の句碑もありました。他にも句碑が建っているので、散策してみるのも楽しいです。

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