2016年の大河ドラマ『真田丸』の舞台、長野県上田市中心部にある上田城です。いわずと知れた真田家の本拠地であった城で、天正13年(1585)に完成したとみられています。天下にその名を知られるようになったのもちょうどその年。北条と手を組もうとする徳川の軍勢7000人余りを、わずか2000人足らずで迎え撃ち、見事に撃退せしめたのです。(第一次上田合戦)二度目にその名を響かせたのは、1600年の関が原の戦いの際に起こった第二次上田合戦でした。西軍についた真田昌幸と信繁(幸村)は西上する徳川秀忠軍3万8000人に対して、わずか2500人で籠城で応戦し、舐めてかかった徳川軍を7日間も上田に釘付けしました。

この門は左右に櫓がある構造の櫓門です。一見すると大したことのない地方の小城であった上田城がそこまでの戦果を上げたのは、昌幸・信之・信繁の極めて優れた城郭構造と卓越した戦術によるものに他なりません。

これは真田石と呼ばれる巨石です。天正11年(1583)、昌幸が上田城を築くときに据えた、高さ2.5m、幅3mほどの大きな柱石で、元和8年(1622)、信之が松代へ移封される際、この石を父の形見に持って行こうとしたが、微動だにしなかったと伝えれています。南櫓~櫓門2階~北櫓の内部は資料館になっており、櫓跡から出土した金の鯱や火縄銃などが展示されています。

櫓門を入ると正面に見えるのが真田神社です。真田家、仙石家、松平家の歴代藩主が奉られている神社で、明治時代にはこの上田城公園全体の管理も行っていました。敷地内に大きな赤備え兜が飾られていました。上田に居を構えていたときから赤備えではなかったようで、大阪夏の陣で真田丸という名の曲輪(出城)で奮戦した際に用いられたと言われています。

ここが本丸跡です。明治維新の廃城令によって本丸を含むほとんどの建物は取り壊され、まさに廃城になっていたところを民間に払い下げられました。その後、後世に残すために整備されたのが、今ある上田城址公園の始まりです。本丸跡の中央には、「戊辰役上田藩従軍紀年碑」が建てられています。明治維新後、新政府軍と旧幕府軍との間に起こった「戊辰戦争」。当時の上田藩主は譜代大名の松平家でしたが、戊辰戦争では新政府側について会津戦争などに従軍したと言われています。

櫓門を出ると沢山の観光の方々と、近くの小学校の遠足でしょうか、かわいい子どもたちの声が聞こえました。

本丸の周りは城址公園になっており、綺麗に整備されています。桜の豪華さでも有名で、春になると千本桜まつりが行われ、沢山の花見客でごったがえします。

こちらは園内にある上田市立博物館です。こちらでは、真田家や前述の養蚕業の歴史に関する様々な資料が展示されています。

本丸周りの堀です。この上田城の堀は鬼門にあたる北東の角が落とされていて(隅欠)、そこに櫓を立てるなどのこだわりがされています。

園内の所々には石垣があり、当時の真田の盛衰を感じられます。

 

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